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恩返しの言葉

 アパートに借りている部屋に入ると、水道水を思い切り飲んだ。
 口からコップを離すと、荒い息が漏れる。喉の奥が詰まりそうで、目をかたく閉じた。
 高校を卒業後、家を飛び出して働き始めた。以前アルバイトをしたことのある、衣類を扱う倉庫だった。就職できる場所がそこしかなかったという理由で三十過ぎまで働いたが、今日、部署の縮小が発表された。
 これからの家賃をどうするのか。勢いで出てきた手前、今更親に頼るわけにはいかない。
 スーツを脱ぎ捨て、楽な服装に着替える。部屋は蒸し暑いが、冷房を点けるわけにはいかない。
 マットレスに横になると身体のだるさを感じる。もう指先を動かすことすら億劫だった。
 明日のことを考えたくなくて、ただ照明を見上げる。もう寝てしまいたい。そう思う反面、目はさえていた。
 しばらくじっとしていたが、急に思い立って上半身を起こす。このままだらだらしているだけならば、散歩に行こう。
 電気を消して部屋を出る。外のほうが風があり涼しかった。
 夜の住宅街の道は誰もおらず、自分の足音だけが響いていた。すっかり夏になっていたが夜は案外涼しい。風が蒸した体を冷やしていった。
 気分よく歩いていたが、大通りに出た途端、客引きの元気な声が耳についた。若い友達連れの女性たちが足を止める。居酒屋の店員らしい男性が冗談を言って笑わせ、そのまま店内に入って行った。
 町は活気に溢れている。なのに自分はどうだ。働くことさえ満足にできない。散歩などしている暇があるなら次の職場を探さなければならないのだ。
 肩を落としてきびすを返した途端、ひときわ高い声が耳に響いた。
「ライブやりまーす!」
 パンクファッションというのだろうか、派手な服装に身を包んだ少女たちがフライヤーを配っている。笑顔を振りまく彼女たちは眩しく、見ているのが辛かった。
 やっぱり帰ろう。そう思ったとき、一人の少女と目が合ってしまった。
「お願いします!」
 思わず差し出されたフライヤーを受け取る。手書きをコピーしたものらしい。可愛らしい文字が並んでいる。
 少女は男の顔を見ると笑みを引っ込めた。
「おじさん、大丈夫? 今にも死にそうな顔してるよ」
 そんなにひどい顔をしていたのだろうか。無理に笑うと大丈夫だよ、と言った。
「ねえ、うちのライブ見に来てよ。嫌なことなんて吹っ飛んじゃうよ」
「考えておくよ」
「絶対だからね」
 少女は念を押してまた配りに戻っていった。
 絶対か、参ったな。行かなくても彼女は憶えていないのだろうが、その言葉が頭に残っていた。

 ライブハウスに入ると、自分よりずっと若い男女で賑わっていた。満員とは言いがたいが、駆け出しのバンドにしては人が入っている。
 頼んだ烏龍茶を一番後ろで飲んでいると、照明が落とされた。ステージに光が灯る。
 ドラムの音から音楽が始まる。客席から歓声が上がる。見覚えのある少女が顔を上げ、凛とした表情で歌い出した。
 男は烏龍茶を飲むことも忘れ、少女に釘付けになっていた。彼女の歌は迫力があり、重く男の胸を打った。自分よりずっと年下の小柄な少女を、格好良いとすら思った。
「ありがとうございました!」
 汗に濡れた少女は、最後まで笑顔だった。
 ライブが終わり、高揚したまま帰路につく。
 このままではいけない。自分も動き出さなければならない。そう思うといてもたってもいられなくなった。どんな小さな仕事でもいい。生きていくことができるなら、きっとまたあのような出会いがあるだろう。
 求人の広告を探して歩いていると、あの少女の姿を見つけた。
 彼女は男を見ると手を振った。
「昨日フライヤーもらってくれた人だよね? 今日も見に来てくれたでしょ」
「よく覚えていたな」
「だって昨日はあなた、本当に死にそうだったんだもん」
 男をじっと見つめると、安堵したように笑った。
「今日は大丈夫そうだね」
「おかげさまで」
 君たちのおかげだ、ありがとう。喉まで出かかった言葉が消えた。
「またライブきてね」
 少女はそう言って夜の街を駆けていった。
 背を見送りながら、感謝を伝えなかったことを後悔して立ちすくんだ。素直にものが言えなくなったのはいつからだろう。せわしく仕事をしているうちに、そんな簡単なこともできなくなっていたのだ。
 男はスマートフォンを取り出す。バンド名を入力すると、ひとつのホームページが出てくる。
 よし、と自分に喝を入れるとまた広告を探しに歩き出した。

 新しい仕事に慣れた頃、男は帰り道にある公園で小さな影を見つけた。
 彼女がライブをやることはもうない。他のメンバーが次々と脱退し、ついに一人になってしまったのだ。
「こんばんは。ひどい顔をしているね」
 少女は男を見ると首を傾げた。
「おじさん、どこかで会ったことある?」
「君のライブでね」
 それを聞いて目を丸くする。
「ずっと君にありがとうって言いたかったんだ。君の音楽に救われた」
 彼女は顔を伏せた。泣いているのかもしれなかった。
「よかったら、君の歌を聴かせてくれないか」
 しばらくなにも言わずうつむいていたが、突然立ち上がると大きく息を吸った。
 歌い出したのはあの日聴いた曲だった。目尻に涙を溜めながら、眩しい笑顔を男に向けた。
 彼女の歌を聴くのはもはや男だけだった。それでも二人は幸せだった。
 歌い終わると、男の手を取る。
「ありがとうございました」
 それはもう彼女が歌わないことを指していた。目頭が熱くなるのを堪えながら、それを笑って受け入れた。
 少女の背を見送りながら、男は頑張れ、と呟いていた。

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